無名の場所

それまで立ち入ることを禁じられていた場所が、突然開放されたとき、人々は戸惑いながらも、さてこれをどのように使おうかと、思いを巡らすにちがいない。あらゆるアイデアが構想されるだろう。それまで、空白として人々の頭のなかで考えられていた場所は、ブラックホールのように、人々の生活や仕事やふるまいを取り込んでいく。このとき、構想者には専門家も非専門家も同じである。質や深度のちがいはあれど、それは本質的なちがいではない。しかしいずれ、そのちがいが本質的なものになるだろう。その場所を専有する人間が現れ、意味や使い道を固定し、自由な使用を遮断する。ブラックホールの時代は終わり、その周囲にこれまであった空間となだらかに結ばれる。

最後まで

最後までたどり着かなければ分からないということはたしかに存在する。到達点に達して、そこから振り返ってみてようやく、個別の事象の意味や、それらの整合性のある関係が把握できることがある。このとき、到達点に達するまでのあいだには、そのプロセスの一歩一歩をたしかなものにする必要がない。むしろプロセスのさなかでプロセスの整合性をとることは弊害しか産まないのではないか。着想の時点で、分かるのは、おぼろげな到達点のみである。

空間の歴史

私はいま、ある空間の歴史を書いている。空間自体、空間そのものの歴史である。もちろん空間とは曖昧模糊としていて直接触れ得る存在ではない。だから、なんらかの媒介を介することで、ようやく私は空間の歴史を書くことができる立場に立っている。空間とはある事物と事物のあいだに存する余白であり、その余白を生み出す事物が干渉することではじめて空間が立ち上がる、という定義をおこなったのはG.ジンメルである。私が書こうとする空間の歴史は、それを(余白ではなく)空間として成り立たせる事物の歴史と、その事物の干渉の仕方を通して描き出される。