アンドリュー・リーチ『建築史とは何か?』、横手義洋訳、中央公論美術出版、2016年

アンドリュー・リーチ『建築史とは何か?』を読んでいる。いまのところ第四章まで。第四章の「どのように役立つか」が俄然おもしろい。もともと歴史学には実証的に史実だけを積み重ねていこうとする志向と、それを教訓なりとして読者にとって有用なものへと昇華させようとする志向のふたつがあると思うが、その話題を建築史学において展開している。

 

本章のリーチの記述によれば、建築史においては第二次世界大戦後に歴史を有用なものとして扱おうとする傾向が顕著になった。そしてそれが1970年代までに批判されることになる。その歴史を語るうえで、具体的に取り上げられているのはブルーノ・ゼヴィ、ヘンリー・ミロン、マンフレッド・タフーリという三名の建築史家である。まずゼヴィは素朴に建築史の実用性を強く主張した建築史家として描かれる。ゼヴィのなかで建築史は建築教育、とりわけ建築家教育にとってきわめて実用的で有用なものとして想定された。これを批判したのがミロンだった。ただし、ミロンの考えはゼヴィのそれと対立するものというよりは拡張するものだった。建築の歴史は建築家にかぎらずより広範な文化・社会一般に資するべきものとミロンは想定した。

 

ゼヴィーミロンのこのような主張は、基本的には建築史を読者にとって実用的な存在として構想する点で共通する。異なるのは、ここで想定される読者が、建築家であるか(ゼヴィ)、より広い文化的読者か(ミロン)、という点にすぎない。両者に通底する実用性重視論に根本的な批判をくわえたのがタフーリにほかならない。タフーリは実用性に重きをおく建築史は「あまりにも視野が狭く」、建築家に「まやかしの希望」を提供するものにすぎないとした。そして「建築史家は過去から抽出される安直な指針を建築家に与えるようりは、建物が生み出される際の混沌とした状況を強調すべきであり、同時代の読者に、建築史の大きな流れに矛盾するような実例や建築家や問題を知らしめる必要がある」という。要するに、建築史家側で読者=建築家に有用な歴史を描き提供しようとすれば、それは史実を必ずや歪めるし、おそらく記述範囲は狭まり、結果として「賢明な」建築家にとってはありがた迷惑になるだろう、ということである。建築史家は、建築家には実用性ではなく「刺激」を与えるにとどめ、建築家の「輩出」ではなく「惰性で設計しないよう」務めるべきというのが、タフーリの立場である。タフーリの立場に立てば、建築史家は建築史を書けばよく、実用性は副次的なものにすぎない。

 

三名の態度を、リーチはこのように換言しながら総括している。

歴史の知を援用し有用性を持つ歴史。

研究自体を目的とする科学的・学術的歴史。

(有用性や操作性を備える)目的遂行の歴史にも、(十分に確立した)慣行的な歴史にも反対し、知識や分析を駆使する批判的歴史。

 

読書努力

文章を書くのに苦労した一年だった。どうもリズムを忘れてしまったらしい。てにをはが気になって、末尾や接続詞が気になって、勢いよく文章が書けない。構造的に書くか流れるように書くか、どちらにするのか、選びきれていないようだ。あるいは、文章を読む機会が減っていることが、この原因かもしれない。それはたしかにそのとおりであるように思う。書物は少なくとも読んでいるが、とくに雑誌掲載のある程度の分量の、クリティカルな評論というのを、めったに読まなくなった。であれば、それが書きにくくなっているのも、当然だろう。結局、日々の読書努力がものをいう。知的にも、文章の質的にも。今年は知的生活を送ることを肝に銘じたい。とはいえ、濫読する(できる)時期はとうに過ぎている。やるべきことをやったうえで、そのあまりの時間を投入することを肝に銘じるということだ。要するに、無駄な時間をなくせ、ということである。

雑さ

文章をもっと雑に書けたら、とよく思う。せせこましくなりがちである。たとえるなら、均整のとれた直方体。そのようなイメージの文章。これはやはりせせこましい。もっと、あちこちに襞があり、トゲや角が出っ張っているような、そういう文章が書けたらと思うのだ。そのためには雑さが必要なのである。しかし、おそらくその雑さ、おそらく有用な雑さと表現してよいかと思うが、それを達成するには、世界を慎重に見分ける眼が必要なのだろう。世界を性質ごとに分類して、階層化して、関連づけるような、そうした思考の慎重さと眼の鋭さが必要なのだろう。

問題設定

問題設定が必要だ。これはもしかしたら多くの人が言い尽くしてきたことなのかもしれないけれども、私もようやく実感としてこのことを理解をした。問題設定をし、そのフレームワークのなかで歴史を再配置すること。おそらく、いま必要であるのはこれである。大きなジャンプが必要である。いまや指導的な理論はなく、相互チェックのための批評もない。しかし、というよりもだからこそ、ジャンプが必要なのであり、問題の再設定が必要なのだ。

理念的所作

仕事を進めているわきでいくつか討論の舞台にのぼり、あるいはそれを見た。役割というのはやはり大事なものだと思う。翻って自分の役割というものを自覚する必要があるとも思う。それはつまるところ理念的な水準にあるのだろう、結局。ないものねだりやあちこちに触手を伸ばすことはつつしんで、その水準と役割でどれだけ行いが可能かを考える時期に来ているのかもしれない。

椅子

昨年はありがたく多忙であったものの、仕事に迷いがあって苦しい一年だったように思う。理由ははっきりしていて、自分の使えるリソースの大半が割かれる対象がすでにあり、そのほかには本腰を入れるようなことができなかったからだ。自分の身体的欠陥を考えれば、作業の選別はいたしかたないこととも思うのだけれど、まだ若いし、身体を改善することでその前提は覆しつつ、今年はフットワーク軽くいきたい。

ボルタンスキー展@庭園美術館

事前に想像していたよりもだいぶ小ぶりな展覧会だったこともあり、いまいちぐっとこなかった。既存の空間、とくに歴史的な価値や良さを有する空間に鑑賞するたぐいのインスタレーションは、何らかのかたちでその全体性に抵触していないと、あまり面白いものにはならないのかもしれない。ここで言う「全体性」というのは、物理的な全部ということでは必ずしもない。鑑賞を終えて、あるいは鑑賞の途中からすでに、既存とそれに鑑賞する新たな作為が二重をつくるような印象を与える、ということ。それが空間に本質的に干渉している状態だろう。

今回の展覧会の印象がそうはならなかったのは、作品の質も多分に影響していそうだけれど、同時開催の美術館自体の解説的展示との食い合わせが悪いことが大きいと思う。とりわけ庭園美術館アール・デコの建築として優れていて、ディテールが豊富である分、新規のインスタレーションがその「全体性」に干渉するにはかなり難易度が高い。そもそもそうであるのに加えて、そのディテールを事細かに伝える展示が並走していれば(しかもけっこう魅力的に)、もはや全体を上塗りすることは不可能に近いようにお思える。

やはり単純に、館の全体をすべて作家に預けるくらいしなければ、庭園美術館でのインスタレーションというのはうまくいかないのだろう。各質の室内意匠が多様だからこそ、数室だけ干渉してください、では、成立しないのである。